以前も記事に書いたと思うが、俺は中学3年の時に囲碁棋士を目指して、熊本の実家から大阪へ単身出てきて約3年間の修行を積んだ。

結果として棋士になることはできなかったが、ここでの努力経験は社会人になってからの10年以上の間、様々な面で役に立つこととなった。

今回は俺が囲碁棋士を目指した3年間でどの程度の努力をしてきたかと、その経験がその後どのように役立ったかを振り返りながら紹介していこうと思う。

15歳〜18歳の3年間で熱中した囲碁

囲碁棋士になるには、まず棋士を目指す若者が集まる養成機関の「院生」に所属し、年齢制限(当時は18歳までだった)までに所定の成績を収める必要がある。

この所定の成績というのが果てしなく長い道のりなのだ。

毎週土日に2局ずつ「院生」同士で週に計4局の対戦をおこない、10級からスタートする級位を一つずつ上げていかなければいけない。

級位を上げるには4連勝や、6連勝など、所定の成績を収める必要があり、逆に連敗が続くと折角上がった級も降級してしまうこともある。

こういった厳しいルールの中で、10級、9級・・・2級、1級と徐々に級を上げ、最終的に初段に達することができれば晴れてプロの仲間入りというわけだ。

毎週おこなわれる院生同士の対局は、基本的に総当たり方式でおこなわれる。

そのため、下位の級の人と当たることもあるのだが、級差に応じたハンデが設けられるので、この中で勝ち続けていくのは並大抵のことではない。

大阪に出てきてからの3年間は、この過酷な世界で勝ち抜きプロになるため、毎日朝から晩まで囲碁の勉強漬けの生活を送っていた。

俺の覚えている限り、この3年間で碁盤を触らなかった日は一日もなかったはずだ。

おそらく、普通に高校へ進学した俺以外の同級生は、部活であれ勉強であれ、道は違えど俺と同等以上の努力をしてきた人間はただの一人もいなかっただろう。

結果として、年齢制限により棋士の道を諦めざるを得なくなり、一時はこの先の人生に絶望していたが、この3年間でおこなってきた努力の経験はその後偉大な財産となり、社会人となって以降役に立つこととなる。

目標へ向けての努力量が周りよりも多いらしい

棋士への道が絶たれた後、学歴は無くとも幸いながら、すぐに社会人として働くこととなった。

当時のビジネススキルは、ブラインドタッチはできるものの、Word、Excelを触ったこともなく、名刺交換すらままならないような状態であった。

このままではまずいと思い、学歴が無いなら何か一芸に秀でなければと思ってPCスキルを上げることに注力した。

仕事前や仕事帰りに少しずつ、家のノートPCと参考書で勉強していただけなのだが、結果1年も経たない間に当時の職場で一番くらいのスキルに達することができたのだ。

この時の勉強量は、囲碁の修行時代に比べると本当に大したものではなかったのだが、どうやら周囲の努力量よりも勝るものがあったらしい。

その後も、知識ゼロから4ヶ月で日商簿記を取得した時、運動経験ゼロからブラジリアン柔術の黒帯を取得した時、同期と一緒に未経験からWebデザイナーを目指して入社した時など、社会人になってからあらゆる場面で物事に打ち込むときの周りとの努力量の差を感じてきた。

とはいえ当時の努力量を再現することは難しい

とはいえ、今また何かを始める時に、囲碁棋士を目指した当時の努力量を超えて物事に打ち込むことはできなくなっている。

視野の狭かった当時は、棋士を目指す道を選択した以上、途中で他の道を選ぶことは許されず、このまま突き進むしかないと思っていた。

今は様々なことを経験し、あらゆるスキルを身に付けたことで、良くも悪くも視野が広がっている。

そのため、1つのことに打ち込もうとしても、別の道も見えてしまっているため、なかなかフルベットすることができなくなっている。

また、結婚して家庭を持ったことで、無責任な選択が許されなくなっている。

恐らく、このさき数十年の長い人生で、あの時を超える努力量を再現することは難しいだろう。

努力量のキャパシティが多いものが勝つ

失うものの少ない10代の時に、他の一般的な人生を送る人たちが経験できないような努力をすることができたのは大きな財産だ。

俺は努力量のキャパシティと呼ぶが、このキャパが大きければ大きいほど、何かに打ち込む時の努力量が大きくなる。

極端な話ではあるが、キャパの大きい人間にとって10%の努力量というのが、一般人の100%の努力量を超えることは実際に良くあることだと思う。

例えば、東大卒の人間と、大して真面目に勉強せずにダラダラと二流大学を卒業した同じ大卒の人間が、互いに予備知識ゼロの状態からプログラミングを学習し始めたとする。

この場合確証はないが、1年後には10倍どころか100倍以上の差が生まれるだろう。
※100人いたら99人がそう思うだろう。

この例が、確証もなく何故そう思われるかと言うと、これまでの実績と経験、努力量に大きな差があるからだ。

10代の時は失敗を恐れず目先の目標にフルベット

当然、夢に向かって挑戦した結果、棋士になれたり、東大に入れたりと、成功するに越したことはないが、仮に失敗したところで何も恥ずべきではないし、恐れることもない。

その時の努力量が、挑戦しなかったその他大勢の人よりも圧倒的に高ければ、社会人になってから追い抜くことも容易い。

周囲との努力量の差にびっくりすることになるだろう。

なぜこのくらいのこともやらないのかと。

最近、夢のない若者が多いと言われるが、夢はみんなあるだろう。

ホリエモンも同じような事を言っていたが、その夢を口に出したり、挑戦して失敗するのが恐かったり、恥ずかしかったりするのだと思う。

俺は10代の時に挑戦・失敗の経験があるが、今はその経験を誇りに思うし、短期間で遅れを取り戻し、まわりを追い越してきた。

当時、俺と同じように棋士になれず失敗してきた仲間もいるが、その後の人生で、起業してビジネスで成功している人や、有名企業へ入社した人、個人のアプリ開発で成功を収めている人など、大きな復活を果たした人も沢山いる。

これらに共通して言えるのが、みんな中卒や高卒だが、努力のキャパシティが周りより格段に多いということだ。

最後になるが、リスクの少ない10代の時は、とにかく失敗を恐れず目先の目標にフルベットしてみること。

失敗することもあると思う。その時は人生に絶望するはずだ。

しかし、そのとき費やした努力が別の形で将来実を結ぶことになるだろう。